静岡天満宮の所蔵品
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1.天神信仰の原点

 静岡天満宮は昔、川中天神と呼ばれていた。まだ安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があった。それが天の神の降臨する所として祀られるあいだに、いつしか川中天神と呼ばれるようになった。静岡天満宮が鎮座する呉服町の地下には、大きな天神様の形をした石が埋まっているという伝説もある。これが天満宮の境内に大切に伝えられてきたことは、神社の出発点が石と深い関係を持っていたことを物語っている。

 古代の人は、人間の生活を守り、豊かな稔りをもたらすものはすべて神の力であると信じていた。目に見えない神は巨石・巨木・山・岬などに宿ると考え、そこで祭りを行った。こうした神が天の神すなわち天神様だった。天神信仰は、本来漠然とした自然崇拝そのものに発している。

 ところが、平安時代、学者としても名高かった菅原道真公が藤原氏の陰謀によって九州にながされ、そこで寂しく亡くなるという事件が起こった。まもなく京都の御所に落雷があると、これこそ怨みをのんで死んだ菅公の霊の仕業に違いないと当時の人々は考え、雷すなわち 天の神=天神として菅公を祀り、その霊を慰めようとした。やがて全国にある無数の天神社もこの影響を受け、菅公を御祭神として祀り始めた。静岡天満宮もそうして平安時代末には、今日のように菅原道真公を御祭神として崇めたと伝えられる。

 日本の神社信仰の流れは、素朴な自然崇拝が具体的な祭神と結びつき、やがて立派な社殿へと発展していく。静岡天満宮の出発点とされる石伝説は、日本の天神信仰の原点を示すものといってよいであろう。

川中天神伝説碑 川中天満宮掛け軸
【 川中天神伝説碑 】 【 川中天満宮掛け軸 】

 静岡の老舗「竹茗堂」の初代竹茗氏(西村忠実)は、歌人でもあり、また国学も良くし、本居宣長(1730~1801)と親交があり、木枯らしの森にともに遊んだことが碑に刻まれている、元明元年(1781)で茶舗を始めたころよりすでにあった掛け軸が、七代目(故西村泰輔氏)の夫人の扶希子氏により静岡天満宮に奉納された。この掛軸には安倍川と大岩を背にした菅公の像の絵である。これは静岡天満宮の原点を物語っている。

2.特異な静岡天満宮

 農耕民族である日本人は、自然の恩恵と脅威とを感じつつ生活を営んできたのでこの自然の力を充分に知って、五穀豊穣と無病息災を祈願して、身近にある山の嶺や麓川の中州や岸辺、森の奥、海の磯辺の傍らに、この自然神を祀った。この自然神は「天神地祇」であり、この「天神」(てんしん 清音)と、無実の罪で九州太宰に流されて謫所で逝った菅原道公の神号が「天満自在天神」の「天神」(てんじん濁音)とが重なって、天神社といわれていた神社の大半が、菅原道真公を祀るようになった。

 菅原道真公は、鈴鹿の関より東方へは出向していないにもかかわらず、現在天満宮が全国各地に存在しているのは、その土地の有力者や豪士、城主等が、学問の神「菅原道真公」を尊敬して、歓請して祭り、神人(じにん)御師(ごし)という天満宮の布教者によるのである。

 こうした中で、「静岡天満宮」が菅原家と直接結びつきのある神社であるのは、次の理由による。菅原道真公が無実の罪により、九州太宰府に流された昌泰四年(901年)一月二十五日の翌々日に長男の高視公は土佐に、三男の兼茂公は飛騨に、四男の敦茂公は播磨に流され、次男の景行公は駿河権介(するがごんのすけ)に降格されて、この駿河の国府に流されたのである。 この駿河の国府は現在の「静岡天満宮」を中心とする中町、追手町一帯であった。 次男の景行公は此処に居住した。 このような理由で菅原道真公と次男の景行公父子を祀る「静岡天満宮」は駿河国で菅原家と直接つながりをもつ特異な天満宮なのである。

3.<江戸時代の静岡天満宮>四足天神

慶長12年 家康在城当時駿府絵図
【 慶長12年 家康在城当時駿府絵図 】

 図面は昭和63年に静岡天満宮が復刻した絵図の一部である。 四足御門は諸大名が家康謁見のとき城内に入る門であり、この周辺は当時の東海道のメインストリートである。四足御門の町名(四ツ足町)も記され、静岡天満宮も当時は「四足天神」と称されてもいたのである。 絵図の中で赤色の部分は社・寺を示している。
 図面の印は『四足天神』と判読できる。すでにこの時代には静岡天満宮は諸大名や庶民の崇敬されていたのである。

4.<静岡天満宮摂社>景行社 (かげつらしゃ)

 道真公が無実の罪で九州太宰府に流された昌泰4年(901)1月25日の翌々日の1月27日、道真公の子供達は位を下げてそれぞれ別々の地に流された。長男の高視公は土佐の国(高知県)へ、三男の兼茂公は飛騨の国(岐阜県)へ、四男の淳茂公は播磨の国(兵庫県)へ、そして次男の景行公は駿河権介と格下げされて、駿河の国に流された。
 身体の弱い景行公はやっとの思いで駿府の地に着いたときには、もう生きる気力もないほどだった。そして、その後景行公は勅許を得て常陸介として赴任された。

 景行公の霊を慰めようと平成元年、篤志家によって景行公の神祠が寄進され、景行公の霊を祀ったのが「景行社」なのである。父君道真公も安堵されたことと思う。

景行社
【 景行社 】