菅原道真公
静岡天満宮の所蔵品
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1.御祭神菅原道真公と牛

多くの天満宮には必ずといってよいほど臥牛が祀られている。しかし、天満宮と臥牛とのつながりについて知る人は少ない。天満宮と臥牛については、いろいろと伝統的な物語が存している。そのいくつかを紹介したい。

【一】
 静岡天満宮の御祭神は「菅原道真公」である。道真公は、承知十二年(八四五)六月二十五日に生まれた。この承知十二年は干支(えと)でいうと「乙丑(このとうし)」である。すなわち、道真公は丑年(うしどし)に生まれたので、道真公を祭る天満宮には臥牛が祀られているのである。更に、道真公の生まれたのは「丑の年の丑の日の丑の刻」であるという伝説的な話も出てもいる。

【二】

 道真公は超異的な学才の持ち主であり、また政治的手腕に優れていたので、やがて右大臣にまで昇進したが、宇多天皇は
道真公のみを重用し、藤原氏を始め他氏を殆ど問題とせず、宇多天皇自身の退位も道真公のみに相談するほどであった。
 当時、左大臣であった藤原時平をはじめ、多くの貴族が不満をもつのは当然でありこれが道真公を排斥する機運が強くなり、
やがてこれらの人々の策謀によって道真公は九州の太宰府に罪人として流されたのである。
その罪は、道真公の女婿斎世親王を天皇の位につける謀叛をしたというものである。
道真公は全く関知しない、全くの冤罪で不満のうちに罪人として大宰府で亡くなった。
 こうしたことがあってから、当時の都、京都では道真公を大宰府に追いやった人々が清涼殿で朝議をしていたとき、落雷があり
大半の人々があるいは死に、あるいは火傷をし、あるいは大怪我をするといった事態の不幸が相い継ぎ、世間の人々は「道真公の怨念の為すところなり」とまでいうようになり、道真公は雷神であるとされた。
 雷は雨の前兆であり、雨は農耕に最も大切なものであり、農耕民族の日本人はこの雷を祀るために、農耕にはなくてはならぬ
大切な労働力である牛を捧げたのである。こうして、道真公、雷神、牛が結びついて、天満宮に臥牛が祀られているという説話が生まれた。

【三】

 道真公は大宰府に流された二年後に亡くなられた。当時の習慣として遺骨は都に返すことになっていたが、道真公はそれを望まず
九州に葬られることを望んだ。その柩を牛に曳かせて家を出てからしばらくして、その牛が突然路傍に伏臥して動かなくなってしまった。従者達は「ここに埋めよ」との告知であろうと、この地に墓所を造った。この寺を安楽寺といい、現在の太宰府天満宮
であるがこのために天満宮にある牛は殆どが「臥牛」である。

【四】

 道真公がまだ都にいた頃、住まいの中に子牛が迷い込んできた。道真公はこれを可愛がり大事に育てていたが、子牛はおおきく
なるとやがて何処とも知れず去って行った。道真公も気にしていたが、やがてそのままになってしまった。
ところが、道真公が罪人として大宰府に流される途中、大阪の道明寺にいる伯母に別れの挨拶に訪ねて行った折、道真公は刺客に
襲われた。その時、何処がらか以前の牛が現れて、その刺客を追い払って道真公を助けたという。
 このような伝統的な物語うまれて、道真公と牛とのつながりは益々深くなって行ったのである。

【五】

 「牛」は「天満宮の使卑(つかわしめ)」とされるようになったが、「使卑(つかわしめ)」とは「神や仏のお使いといわれるもの」
(日本国語大辞典)と説明されている。「稲荷神社の狐」「熊野神社の烏」「八幡宮の鳩」「春日大社の鹿」なども同じであるが、
天満宮の牛も同様でその殆どが「臥牛」である。牛はその歩みが着実でそれゆえ「前進」「隆盛」「幸福」の象徴とされ、またこの
臥牛は「天神様のお使いの牛」撫でると夢を叶えてくれるとも言われている。

2.御祭神菅原道真公と梅

 菅公と梅との関係は深く、公の五条の邸宅の庭前には梅があり常に梅を眺めての生活である。
公は和歌(やまとうた)にも漢歌(からうた)にも優れた方で菅家文草の冒頭 には十一歳で初めて詠んだ漢詩(月夜見梅花)が載っているが、これが「梅」の詩で、また、九州太宰府に流され、都と別れる最後の時に読んだ和歌
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
が庭前の「梅」である。
 このように、菅原道真公と梅との深い縁があるのです。

紅梅
【 紅梅 】
白梅
【 白梅 】

3.梅天神(白隠禅師御真筆)

梅天神
1995年 配布カレンダーより

 「駿河の国の過ぎたるものが二つある。富士の高嶺に、白隠禅師」と昔から言われています。そして白隠禅師(1685~1768)の御真筆である、この「梅天神」は白隠禅師75歳のときに 書かれた、いわゆる「文字像(文字絵)」です。「南無天満大自在天神」という文字を使って、静岡天満宮の御祭神菅原道真公の御姿を描いています。
 この「梅天神」の掛け軸は静岡天満宮の敬神家であり後援者でもある東京在住の 水野米太郎氏が手に入れられたものを静岡天満宮に奉納されたものです。「天満大自在天神」とは、道真公の神号といわれています。その起源には諸説がありますが「道賢上人冥途記」のように、仏の世界から出たともいわれています。
 道真公のお顔と公が平生好んでおられた梅が、写実的に描かれています。 諸家の鑑定と禅師の使用されている印譜、顧鑑夷、絵と書の線等によって禅師75歳の作とされています。
 掛軸全体の中に 「宵の間や 都の空に すみもせで 心づくしの 有明の月」 という歌が白隠禅師の歌として記されています。
 全国の美術館にも展示されたこともある白隠禅師の「梅天神」は逸品であると同時に貴重な文化財でもあると思います。
(解説:静岡県美術商組合理事長 久保田達夫氏)

4.厄除けの神(北野天神縁起絵巻)

北野天神縁起絵巻
【 北野天神縁起絵巻(北野天満宮蔵)
1987.6 北野天満宮・角川書店 掲載認証済

 静岡天満宮の御祭神である菅原道真公が、その驚異的な学才の持ち主であり、異常なスピードで出世していった事は周知のとりであるが、これだけの人物でも自らの運命には如何ともしがたいことであった。仁和二年(886)道真公は四十二歳の大厄には宮中における一切の官職をはずされて、讃岐(四国)に転出させられてしまった。自らは「左遷」という語を用いて詩文を作ってその悲愁を詠み、四年間の不運をかこっている。
 世に厄年と言われる男子(二十五歳・四十二歳・六十一歳)、女子(十九歳、三十三歳、三十七歳)は精神的にも肉体的にも変調期であり、人はこの時期を軽視してはならない。充分気をつけるべきである。
 道真公の力を羨望する藤原氏を始め、多くの貴族の策略により、無実の罪で太宰府へ罪人として流された道真公は、三年の間一日として晴れやかな気持ちになれず、悲嘆のうちにその生涯を終えた。道真公は死後、その霊は怨霊となってたたり、雷神となって恨みをはらした。朝廷はその非を認め、手厚い処遇をして北野社に祀り、道真公は王城の守護神となり、雷神となった道真公は災厄を除く神となった。
 日本人の素朴な信仰の中で、悪をなす神がやがて悪から助ける神として崇められるということは鬼子母神信仰も同じである。雷神から厄除けの神となった道真公は、現在北野天満宮では毎月六月に災難除けの神として祭祀を斎行されている。上図は、国宝「北野天神縁起絵巻」中、雷神となっ道真公が悪を懲らしめ災厄を取り除いている図である。

5.駿河天神

天神人形
【 天神人形(雛匠豊寿 作)

 静岡県中部(駿河の国)では天神崇拝が節句の風習と結びつき、江戸時代後期から桃の節句に天神を飾って、男児の無事成長を願う風習が残っている。明るくて大ざっぱな風土性が反映されている。
 この天神人形は静岡天満宮に三和の人形から奉納されたものである。特に衣装は京都西陣の正絹織を使用し、本作り頭、木彫手足で雛匠豊寿が製作したものである。

6.菅原道真公の太宰府への左遷と神格化

1、左遷の旅の中での道真公の心中


①「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
(訳) 東の風が吹いたならば、梅の匂いを私のもとまで届けておくれ。主人がいないからといって、春を忘れたらいけないよ。

②「流れゆくわれは水屑となり果てぬ 君しがらみとなりてとどめよ」
(訳) 地方に流されていく私は、水の藻屑のような身になってしまいました。我が君よ、どうかしがらみとなって私をとどめてください。

③「君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでも返り見しはや」
(訳) あなたが住んでいる家の屋根や木立の梢を、道すがら、(家の屋根や木立が)隠れて見えなくなるまで振り返って見たことですよ。

④ 駅長莫驚時変改
一栄一落是春秋
(訳) 駅長よ、時の変化を驚くことはありません。                  
春には草木が盛り、秋にはこれらが散っていくというのが世の流れというものです。
                         
※以上の引用文献 「マナペディア」の大鏡

2、大宰府での道真公の心中


①『九月十日』菅家後集 四八二
去にし年の今夜(こよひ) 清涼に侍りき
秋の思ひの詩篇 獨り腸(はらわた)を断つ
恩賜(おんし)の御衣は今此に在り
捧げ持ちて日毎に餘(よき)香(やう)を拝す
(訳) 一年前の憂憤の気持ちをこの詩に「獨断腸」と詠んだのだと思われる。ただ謫所大宰府での今は、賜った御衣を天顔を拝する思いで御衣にまつわる余香を毎日がぐことである。

②『問秋月』菅家後集 五一〇
春を度り夏を度りて 只今の秋
鏡の如く環(たまき)の如くにして 本これ鈎なり
爲(かるがゆえ)に問ふ 曾(か)つて終始を告げざりしことを
浮べる雲に掩(おほ)はれて西に流る
(訳)秋の月よ、私はそなたに尋ねたい、今までに一度も進退終始の循環をして止まらぬ運行を
誤ったことはないはずなのにみよ、そなたは今雲に覆われて、西空に向かって流されていくのは、
いったいどしたのか?

③『代月答』菅家後集五一一
蓂發(めいひら)桂香しくして 半圓(なかばまどか)ならむとす
三千世界(さむぜんせかい) 一周(ひとめぐり)する天(そら)
天(てん)玄(げん)鑑(かむ)を廻らして 雲(くも)将(まさに)に霽(は)れむとす
ただこれ西に行く 左遷(させん)ならじ
(訳)私は三千世界の天をひとめぐりしているのだ。みよ、大空は神(あや)しい鏡をめぐらして
私をおおっていた雲をとりさり晴れようとしている月に問いかける人よ、
私は左遷されているのではない、ただ西へ行くさだめなのだ。

菅家後集五一〇の『問秋月』、同じく後集五一一の『代月答』は道真が大宰府に流されてから一年半後延喜2年(902年)の秋に大宰府で詠んだ漢詩とおもわれる。
大宰府に流された当初はあまりにものみすぼらしさ、空虚さ、不満がつのり、誠実実直な道真はじっと我慢し詩作に耽る日々であった、後集四七八の『不出門』の漢詩にあるように観音寺の鐘の音を聞き「・・・観音寺はただ鐘の声を聞くのみ中(衷)懐はことむなし孤雲にしたがいて去る 外物は相逢いて満月を迎ふる・・・」と家に籠り自分の無実の罪の無念を漢詩に詠み気持を託す事と天を仰ぎ無実を訴える日々であった。
かつてより道真は「心だに まことの道に かなひねば 祈らずとても 神やまもらん」と和歌を詠んでいるように、策略を持たない誠の道で生きる学者政治家であったが、その様な道真であっても、謀略による無実の罪を着せられた現実に直面し、天を仰ぎ地に伏して神仏に祈ったのである。
後集四九四『歳日感懐』に「・・・合掌して観音を念ずるのみ 屠蘇(とそ)、盃を把らず」酒に頼らず、仏に祈るだけだと詠んでいる。
道真は持病の脚気と皮膚病がますます悪化し、胸の痛みを感じ、体力も衰えていた。
夏の降り続く雨の日「あめのした かはけるほどの なければや きてしぬれぎぬ ひるよしもなき」(大鏡巻六 時平八九四)と詠んでいるように、折にふれ無実の罪「ぬれぎぬ」を訴えた。
さらに一年半の年月が流れ秋を迎えた、そして都では本来華やかな仲秋の名月の宴であるはずを想い、ここで再び自分の無実を月に問い『問秋月』、そして自問自答し真の道(心)で月に代わって無実を答えたのが『代月答』であろう。源氏物語では光源氏の須磨への下向を道真の漢詩を引いて、(いづかたの 雲路にわれも 迷ひなむ 月の見るらむ 事も恥ずかし)道真の真の道に照らし、光源氏が帰京出来るはずだとの気持を託し念じたのであろう。光源氏はこの歌の中で、道真の真の強い信念の気持と自分の信念との一体化を、月(神)を介して託したと思われる。すばらしい引用である。
そして道真は年が明け延喜3年(903)に大宰府に淡雪が降った時に詠んだ、後集五一四『謫居春雪』、これが絶筆となった。さすがに梅と雪を詠み、最後の最後まで無実を晴らし、都へ戻りたい信念と祈りが詠まれている。それゆえに道真の魂は怨霊となり「祟り神」と成り得たのであろう。


④『謫居春雪』菅家後集 五一四
城に盈(み)ち郭(かく)に溢れて 幾ばくの梅花ぞ
なほ、これ風光の早(そう)歳(さい)の華 
雁の足に黏(ねやか)り将ては 帛(きぬ)を繋(か)けたるかと疑う
烏の頭に點(さ)し著(つ)きては 家に帰らんことおもふ」
(訳) 
春の淡雪が城(都府大宰府)一面に降り積もって、どれほどの梅が咲いたかと思われる。(京の自宅の梅を想い)この雪はやはり日の光に輝く早春の花のようだ、ゆれうごく歳の初めの梅のはなのようだ。雁の足に雪がついて白色の手紙を付けているかと思われる(※①蘇武の故事)烏の頭に白い雪が点をうったようについて頭が白く見え、これできっと自分も家に帰られると思う。 (※②燕の太子丹の故事)
※①蘇武の故事:19年間、匈奴に捕えられていた蘇武が雁の足に白い帛書をつけ、
これを天子が見つけて武を助け出した。『漢書(蘇武伝)』
※②燕丹の故事:秦に捕えられた燕の太子丹が、黒い烏の頭が白くなったら帰すと言われ。
白い雪が付いて白く見えたので、無事帰国できた。『史記(燕召公世家)』
※引用文献 鈴木 巖夫著 『東風吹かば』文芸社

3、道真公の祟り神そして厄除けの神への変遷


道真公の死後、京では異変が相継ぐ。道真公を放逐した政敵 藤原時平の一派であった藤原定国の急死(延喜六年)、藤原菅根の落雷による死亡(延喜8年)、そして時平の39歳の若さでの急逝(延喜9年)。同時に、日照りによる不作、疫病の流行などの災厄が京の街を襲う。この頃から都では、これらの不幸や災厄が道真公の怨念による祟りであるとの噂が流布し、加持祈祷の中に道真公の怨霊が姿を現したなどの流言が飛ぶことになる。ついで、醍醐天皇の皇太子 保明親王が薨御(こうぎょ)され(延喜23年)、これを承継した慶頼王が亡くなられる(延長3年(925年))。そして延長8年、天皇の御殿である清涼殿において折からの旱魃(かんばつ)の対策を話合っていた際、京の街を激しい雷雨が襲い、清涼殿に落雷、火災を引き起こし、さらに儀式の御殿である紫宸殿にも落雷した。この事故で藤原清貫ら数名が即死、醍醐天皇は三ヶ月後に崩御された。これらによって道真公は雷神として恐れられることになったという。当時、地主神として火雷天神が祀られていた北野の地に道真公が祀られ(天暦元年(947年))、これが現在の北野天満宮となっている。道真公の太宰府の墓所には社殿が造営されて(延喜19年(919年)、道真公の御霊をお祀りし、これが現在の太宰府天満宮である。道真公の無実がわかり「祟り神」は変身し、「厄除けの神」となったのである。

4、菅原道真公の心(社頭講話より)


さて今日は静岡天満宮の御祭神で在られます菅原道真公について少しお話したく思います。実は今日は道真公生誕1170年なのです。道真公は承和12年(西暦845年)6月25日にお生まれになりました。幼い時から学才があり5歳で和歌を詠み11歳で韻をふんだ漢詩を詠んだそうで17歳で文章生となり、今でいうと東大京大の大学院生となるという秀才のようです。その後、秀でた学識が認められ宇多天皇により右大臣に昇格しました。道真公はどちらかというと人脈策略政治家ではなく真面目一方の学者政治家であったようです。その一面をうかがわせる和歌があります。
「心だに まことの道に かなひねば いのらずとても 神やまもらん」
祈らなくても良いと言っているのではなく、人には普段から誠(真)を大切にしなければならないと、道真公の本心をあらわしていると思います。
しかしながらこの時代は天皇家の外戚や摂関家になろうとの政治的策略の時代でした、例えば「承和の変」に橘氏・伴氏、「応天門の変」に伴氏、紀氏さらに後に「安和の変」に源氏の排除など様々な政治的陰謀時代であった中で、道真公は真の道で政治に挑んでいたと思います。また、宇多天皇も道真公のその学識と誠に信頼をおき、当時の藤原氏の台頭をおさえようと道真を右大臣に任命したのですが、藤原氏の策略政治の前には勝てず無実の陰謀のもとに延喜1年(西暦901年)に大宰府に流され道真公は政界から排除されてしまいました。
その時の和歌が
「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
この歌は一見梅の花をいつくしむやさしい歌のようですが、実はこの歌の中には、自分のまことの生き方をしてきたのに下野・・・なぜという「悲しさ」「悔しさ」「恨み」が込められていると思います。その二年後の延喜3年(西暦903年)59歳で亡くなられます。
道真公は生涯まことの道で生きてきたからこそ、無実の罪をきせられた陰謀を許すことはできず、怨霊信仰の祟神として雷神となり宮中に落雷したと私は思っています。その後、道真公の無実がわかり「祟り神」は変身し、「厄除けの神」となりました。さらに偉業の学才から「学問の神」となり日本の人々に崇敬されて現在に至っています。このような道真公の「まことの道」は現代社会において忘れがちであります。
人が人として生きていく上に於いて仕事や私生活、何をするにつけてもこの「まことの道」は大切な天(てん)(神様(じんさま))の道ではないでしょうか。