静岡天満宮の銅鐸

1.加茂岩倉遺跡の銅鐸

 平成8年10月14日、島根県雲南市加茂町岩倉において、農道工事中に大量の銅鐸が発見された。
45センチ前後のものが20個、30センチ前後のものが19個、計39個の銅鐸が一度に発見されたのである。
 銅鐸は、2メートル×1メートル四方の、ちょうど畳1畳分くらいの穴の中に、きちんと並べて埋められていたと想像されている。大きい銅鐸一つの中に小さな銅鐸一つを入れた「入れ子」の状態で埋められていたものが12組あり、他3組も「入れ子」だったと推定されている。
 一箇所からの出土数は全国で最多であり、これらの銅鐸は、平成20年7月10日、まとめて国宝に指定された。

 同じ鋳型で作られた、いわゆる兄弟銅鐸のことを同笵銅鐸というが、加茂岩倉遺跡で発掘された39個の銅鐸だけについてみると、18個の銅鐸について7組の同笵関係が認められる(注1)。また、加茂岩倉銅鐸と同笵関係にある銅鐸は、各地で10個以上発見されており、その分布は兵庫、徳島、大阪など、広範囲にわたっている。そのうちの一つが静岡天満宮の所蔵する銅鐸である。

  注1:島根県教育委員会・加茂町教育委員会『加茂岩倉遺跡』(2003年3月)

   加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸          入れ子              同范銅鐸

            ※写真は、いずれも「加茂岩倉遺跡ガイダンス」から(最終アクセス:平成29年11月12日)

 

 

左の図は、加茂岩倉銅鐸39個の埋納状態の想像図の一つ(吾郷和宏(加茂町教育委員会)「加茂岩倉遺跡の現場から~二千年の時を掘る」(アサヒグラフ別冊『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲』(1997年11月))

2.静岡天満宮の銅鐸

 静岡天満宮の所蔵する銅鐸は、江戸時代後期に奈良県北葛城郡上牧町観音山で出土したとされている。大きさは、高さ30センチ、底部(裾)の長径が15.6センチ、短径が11.8センチ、上部(舞)の長径が10.9センチ、短径が7.8センチで、重さは約2キロである。その形状・文様から「外縁付菱環紐袈裟襷文鐸」と呼ばれている。この銅鐸は、加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸のひとつ(17号銅鐸)と同笵関係にあることが確認されている。 
 加茂岩倉銅鐸と同笵関係にある銅鐸が奈良県で出土したことは、出雲勢力と畿内勢力を直接に結ぶ証拠のひとつとして注目されている。つまり、弥生社会の市域共同体が、戦いや連合を繰り返しながら広域の連合国家に成長し、やがて統一政権誕生へと進展し大和朝廷が成立していく過程を想起させるのである(注2)。
 静岡県指定文化財であり、現在、静岡市立登呂博物館に保管・展示されている。 

  注2:静岡市立登呂博物館 元副主幹 中野 宥氏

3.静岡天満宮への伝来

 前宮司鈴木嚴夫からの伝聞によれば、静岡天満宮の銅鐸は、静岡市の「安倍川付近の宮崎家」から寄贈されたということである。静岡には「三崎」(さんざき)という三軒の富豪がおり、宮崎家はその一つだという。

 国立国会図書館デジタルコレクションの前島豊太郎著『宮崎総五君ノ傳』によると、宮崎家の先祖は武田信玄・勝頼に仕えたが、武田氏の衰運とともに同氏を離れ、「駿府ニ來リ、安倍川沿岸ノ不毛ノ地ヲ開拓」したという。その後裔に修験者が出て弥勒院と称し、総五(幼名喜久太郎)氏が生まれたのは文政11年、住所は有渡郡大里村弥勒町だという。現在の静岡市で「弥勒」とは、安倍川橋東岸の川沿いの地域を指す。

 総五氏は幕末に勤皇運動に奔走し、明治期に入って家産を成し、明治22年、明治憲法発布に伴う貴族院議員選出において、静岡県最多額納税者の第3位であり、同議員に選出されたという(注3)。

 神戸大学経済経営研究所がデジタル化した過去の新聞記事のうち、時事新報の大正5年3月29日から10月6日までの記事の中に、「時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家」というのがある。それによると、静岡県からは18名の「富豪」がピックアップされており、その中に安倍郡大里村の宮崎喜久太郎氏の名前がある(注4)。同記事によると、宮崎氏は「曾て貴族院議員たりしことあり静岡実業銀行専務取締役にして又長田貯蓄銀行、日本耐火製材株式会社の重役たり齢四十八」とあるから、これが総五氏の子息ではないかと思われる。また「家に古器、書画の所蔵多し」とあるから、静岡天満宮に寄贈された銅鐸を所有していたとしても不思議はない。

 

  注3:当時、貴族院議員の一部は、各府県の多額納税者上位15名の互選により1名が選出された。

  注4:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫

     http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/detail(最終アクセス:平成29年11月12日)

静岡天満宮の銅鐸の箱書    
静岡天満宮の銅鐸の箱書    

 ところが、静岡天満宮の銅鐸が出土した奈良県北葛城郡上牧町のホームページによると、この銅鐸を「上牧銅鐸」として紹介した考古学者の梅原末治氏は「当時(昭和の初期)の所有者であった野崎彦右衛門さんから伺った話として『野崎さんの先代が、文化(1804~1819年)の初年に上牧村の観音山から出土した銅鐸を京都市烏丸出水上ルの吉田さんから譲り受けたもの』と報告」している(注5)。

 登呂博物館に収納されている銅鐸の箱書を確認したところ、「宝鐸獲之記 比古宝者大和国葛下郡上牧村字観音山よ里発見するもの也時文化初年と云う舊烏丸出水上る正七位吉田嘿翁より譲り受 明治十二年四月十五日認」とあり、その左に「梅原博士著銅鐸之研究原品」とある(右の写真)。

 これらの情報によれば、この銅鐸は、野崎氏が明治12年に吉田氏から譲り受けたものということになる。

 この箱書は、明治12年に「宝鐸獲之記」が書かれ、その後梅原氏が初版の『銅鐸の研究』を発刊した昭和初年に「梅原博士…」の部分が追記されたと考えるのが自然だが、素人目に見たそれぞれの筆跡や墨色から、梅原氏の著作刊行後に、両方が一緒に書かれた可能性もない訳ではないように思われる。

  注5:梅原末治『銅鐸の研究』(木自社1985)  

 野崎家も静岡の富豪「三崎」の一家だったと考えられる。荻野夏木氏が「俗信と『文明開化』」の中で引用する『郵便報知』明治12年9月20日の記事によれば、当時の静岡県下の米価騰貴に対し、困窮者救済のため「多少金円の貯へある有志者より出金を促したるに安倍町の野崎彦右衛門氏は百円…」(注6)とあり、募金に応じた「数十余名」の中では最高額を拠出している。

 『浮月楼』を所有する静岡保徳株式会社の「徳川慶喜公静岡時代年表」によれば、大政奉還後駿府に移住した慶喜公が居所とした紺屋町邸の土地(現在の『浮月楼』の所在地)3,145坪を、明治23年に野崎彦右衛門らが買い取ったとある(注7)。また、銀行図書館「銀行変遷史データベース」に引用された『静岡銀行史』によると、野崎銀行が明治21年静岡銀行に引き継がれたとある(注8)。これらは、野崎家が静岡の富豪「三崎」の一家であったことを示していると思われる。

 上の事情に鑑みると、静岡天満宮の銅鐸は「安倍町の野崎家」から静岡天満宮に寄贈された可能性が高い。「安倍川付近の宮崎家から寄贈された」というのが前宮司の勘違いなのか、あるいは筆者の聞き違いなのか、前宮司帰幽後の今となっては確かめる術がない。

 

  注6:荻野夏木「俗信と『文明開化』明治初年から10年代にかけて」(国立歴史民俗博物館研究報告第174集2012

     年3月、P224)https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun7/pdf/174011.pdf

  注7:静岡保徳株式会社ホームページ「徳川慶喜公静岡時代年表」http://www.hotoku-group.co.jp/history/

  注8:銀行図書館「銀行変遷史データベース」http://www.opac1.com/bank/detail.php?bcd=4358

       (いずれも最終アクセス:平成29年11月12日)