菅原道真公と梅
菅原道真公と梅との関係は深い。
道真公の五条の邸宅の庭前には梅があり、公は常に梅を眺めての生活を送っていた。
公は和歌(やまとうた)にも漢歌(からうた)にも優れた方である。
菅原道真公の幼名は阿呼(あこ)と呼ばれ5歳で以下の「梅の花」の和歌を詠んだ。
梅の花 紅の色にも にたるかな 阿呼(あこ)がほほにも つけたくぞある
また『菅家文草』の冒頭 には11歳で初めて詠んだ漢詩「月夜見梅花」(五言絶句)が載っているが、これが「梅」の詩である。
『月夜見梅花』菅家文草 一
月耀如晴雪 月の耀くは晴れたる雪の如し かがやく月の光は晴れた日の雪のようだ
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり 梅の花は夜空に輝く星に似ている
可憐金鏡轉 憐(あわ)れぶ可し金鏡の轉(かひろ)きて 空には金の鏡のような月の光がくるめき
庭上玉房馨 庭上に玉房の馨(かほ)れることを 地上には宝石のような梅の花が香っていてすばらしい
参考《新編日本古典文学全集》岩波書店
さらに、白梅と雪と鶯の和歌(新古今和歌集)として以下の歌も知られている。
ふる雪に 色まどわせる 梅の花 鶯(うぐいす)のみや わきてしのばむ
(降っている雪と色を見まちがえるような白い梅の花を 鶯だけは見分けているのだろう)
道真公は昌泰4年(901)藤原氏との権力争いに破れ、九州大宰府に配流される。
京五条の邸宅を離れる際、庭前の梅に呼びかけ、以下の和歌を詠んだ。
東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(梅の木よ、東風が吹いて春が来たなら、また芳しい花を咲かせておくれ。主人がいない
からといって、春を忘れてはならないよ)
そして道真は延喜3(903)年に大宰府に淡雪が降った時に詠んだ、後集五一四『謫居春雪』(七言絶句)、これが絶筆となった。さすがに雪を梅花と詠み、最後の最後まで無実を晴らし、都へ戻りたい信念と祈りが詠まれている。
『謫居春雪』菅家後集 五一四
盈城溢郭幾梅花 城(あづち)に盈(みち)郭(くるわ)に溢(あふ)れて幾ばくの梅花(ばいくわ)ぞ
猶是風光早歳華 なほ、これ風光(ふうくわう)の早(そう)歳(さい)の華
雁足黏將疑繫帛 雁(かり)の足に黏(ねやか)り将(い)ては帛(きぬ)を繋(か)けたるかと疑う
烏頭點著思帰家 烏(からす)の頭に點(さ)し著(つ)きては家に帰らんことおもふ
(解釈)
春の淡雪が城(都府大宰府)一面に降り積もって、(京の自宅の梅を想い)
どれほどの梅が咲いたかと思われる。
この雪はやはり日の光に輝く早春の花のようだ、ゆれうごく歳の初めの梅のはなのようだ。
雁の足に雪がついて白色の手紙を付けているかと思われる。(*①蘇武の故事)
烏の頭に白い雪が点をうったようについて頭が白く見え、
これで家に帰られると思う。(*②燕の太子丹の故事)
*①蘇武の故事:19年間、匈奴に捕えられていた蘇武が雁の足に白い帛書をつけ、
これを天子が見つけて武を助け出した。『漢書(蘇武伝)』
*②燕丹の故事:秦に捕えられた燕の太子丹が、黒い烏の頭が白くなったら帰すと言われ、
白い雪が付いて 白く見えたので、無事帰国できた。『史記(燕召公世家)』
*引用文献『新編日本古典文学全集』岩波書店
鈴木嚴夫著 『東風吹かば』文芸社
伝説によれば、梅の木は公を慕うあまり、一夜のうちに大宰府まで飛んでいき、
花を咲かせたという(飛梅伝説)。
ちなみに、五条の邸宅には桜や松もあったが、桜の木は悲しみのあまりみるみる枯れてしまい、松の木は公を慕って飛び去ったが、大宰府まで届かず、現在の神戸市板宿の飛松岡というあたりに根を下ろしたという(飛松伝説)。