特異な静岡天満宮
農耕民族である日本人は、自然の恩恵と脅威とを感じつつ生活を営んできた。古代の人々は、この自然の力を充分に感じとっていたので、これを神として、身近にある山の嶺や麓川の中州や岸辺、森の奥、海の磯辺の傍らに祀り(磐座信仰)、
五穀豊穣と無病息災を祈願した。この自然神は「天神地祇」であり、この「天神」(てんしん
清音)と、無実の罪で九州太宰に流されて謫所で逝った菅原道真公の神号が「天満自在天神」の「天神」(てんじん 濁音)とが重なって、天神社といわれていた神社の大半が、菅原道真公を祀るようになった。
菅原道真公は、鈴鹿の関より東方へは出向していないにもかかわらず、現在、天満宮が全国各地に存在しているのは、その土地の有力者や豪士、城主等が、学問の神様「菅原道真公」を尊敬して、歓請して祀ったこと、また神人(じにん)、御師(ごし)と呼ばれる天満宮の布教者がいたことによるのである。
こうした中で、「静岡天満宮」が菅原家と直接結びつきのある神社であるのは、次の理由による。
菅原道真公が無実の罪により、九州太宰府に流された昌泰4年(901年)1月25日の翌々日(延喜元年1月27日)に長男の高視公は土佐(高知県)に、三男の兼茂公は飛騨(岐阜県)に、四男の敦茂公は播磨(兵庫県)に流され、次男の景行公は駿河権介(するがごんのすけ)に降格されて、この駿河の国府に流された。 この駿河の国府は現在の「静岡天満宮」を中心とする中町、追手町一帯であった。 景行公は此処に居住した。 このような理由で菅原道真公と次男の景行公父子を祀る「静岡天満宮」は、駿河国で菅原家と直接つながりをもつ特異な天満宮なのである。