厄除祈願
人間は成長の過程で、ある年齢に達すると身体的精神的に一つの変革の時期を迎える。この変革の内容は男女の体質の相違などで異なるが、日本人はこの時期を「厄年」として、古来のいろいろな文献に記されている。
民間では特に男子は数え年25歳、42歳、61歳。女子は19歳、33歳、37歳を「大厄」と称して、生涯最も警戒すべき年齢としている。
この年齢の時期に、どんなに本人が注意していても「運命のいたづら」で予測されないことに遭遇する場合がある。理屈では割り切れないこの「運命のいたづら」を何とか避けたいと思うのが人情である。
あれほど超異的な学才の持ち主である天満宮の御祭神であられる菅原道真公も、42歳の大厄の年(886)の正月16日に、これまで順調に進んでいた世界から、一切の官職を外されて、突然四国の讃岐の国司へと転勤させられてしまった。都以外の生活をしたことのない道真公は、本人も全く予想していなかったため、意気消沈、失望落胆してしまった。道真自らも讃岐への赴任を「左遷」という語を用いて詩文を詠んでいる(『菅家文章』巻三「尚書左丞餞席・・・」「相國東閤餞席」「北堂餞宴・・・」)
。世間の人は道真公は讃岐に左遷されたと噂した。
華やかな宮中の生活から、一転して海を渡った地方の生活をすることになった。42歳という年が道真公にとって、どんなに悲惨失望を実感する悲しい年月であったかは、この時期の作品にかなり述べられている、当時の讃岐地方の生活の悲惨さを詠んだ詩文として、特に『菅家文草』巻三「寒早十首」は代表される作品である。やはり42歳は道真公にも「大厄」であった
。
民間では、この年齢に「厄を除く」「厄を落とす」と言っていろいろな習俗が存在している。所詮、弱い人間が運命のいたづら(災厄)から逃れるには理屈を超えて、神に祈り神にすがり神様に守ってもらう以外にないのである。
その後、右大臣にまでなった道真公は、藤原時平の陰謀による無実の罪で大宰府に流され、無念にも大宰府で生涯をとじるが、その怨霊は雷神となって公をおとしいれた貴紳に災を与えると同時に、自らの心の災厄を祓ったと言われ、「祟り神」から「厄除けの神」に変身するのである。もともと日本には災厄をなすものは、それを祀ることによって逆に災厄の「守り神」になるという宗教思想があり、鬼子母神信仰も同様である。
京都北野天満宮では、毎月6月1日に近郷近在の人々・氏子が集まり、災厄を祓い幸せを求める祭典「火雷神祭」が斎行されている。
近年、厄除祈願のため、静岡天満宮を訪れる方が増えており、「災難除け」の神様でもある、同じ御祭神菅原道真公を祀る北野天満宮に倣って、当神社でも、人々が厄を除いて安寧な生活が営まれるように、希望の方に「厄除け」「厄払い」の祈願祭を斎行している。
【令和6年の大厄】
(年齢は数え年。誕生日前の場合は2歳、誕生日を迎えている場合は1歳を、満年齢に加える。)